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東日本大震災から10年の福島からのメッセージ

東日本大震災から10年が経とうとしている。

10年ひと昔という言葉があるが、この10年は昔ではなく、今も歩み続ける復興への歩みの一つのカウント地点だ。

被災地の中でも特に第一原発の爆発事故という大惨事が起きた福島県は大津波の被害とともに放射能の被害を被り、復興の歩みはなかなか進まず、故郷に足を踏み入れることができない状況は今も一部地域に残るのが現状だ。やむを得ず福島を離れなくてはいけなくなってしまった人、他県などに避難しながらも福島へ帰る日を待ち続けて来た人、立ち入り禁止が解除されてすぐに再建に立ち上がった人、さまざまな福島の人の不屈のストーリーがある。コロナ禍の中で世界中の人たちがこの危機を乗り越えようとしている今、東日本大震災から10年という地点に立つ、豊間、四倉、岩沢、北泉の各ポイントの地元サーファーの皆さんの生の声を届けたい。

 

今回はコロナ禍ということで現地には行かず電話でインタビューをさせて頂いた。あらためて震災当時の様子やそこからの道のり、そして今を話して頂く中で、私自身が感じたのは被災地の人の強さだ。人間はどんなにひどい状況に陥っても希望をもち続けそこから這い上がり、前へと進んで行けるということ。これからも波の宝庫でもある福島を応援していきたいと思いながらも、逆に生きる力を教えてもらった次第だ。まさに福島がこの10年を強く歩んで来たという証ではないだろうか。

現実に福島の海に入っている人たちの話をとおして、福島の代表的なポイントの今について少しでも知って頂き、今も続く風評被害をなくすとともに、福島の不屈の復興の姿に学びながら共にコロナ禍を乗り越えていければと思う。福島はこれからも力強い歩みを続け、見事な復興の姿と福島の素晴らしい波に乗るサーファーたちの笑顔を年々多く届けてくれるだろう。

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震災後訪れた、瓦礫だらけになった場所に植えられた向日葵の花を思い出す。10年が経とうとしている今、太陽に向かって咲くあの向日葵は、福島の人のようだったなと感じている。

文・写真/米地有理子

<豊間ポイント>

鈴木孝史さん(本人提供)
鈴木孝史さん(サーフショップ「Slow Dancer」オーナー、写真は本人提供)

震災の日はうちに居て、息子(鈴木大輔プロ)が店番してた。店の中、みんな吹っ飛んで、板も倒れて収集がつかない状況。そのときは津波が来るとは思っていなかったね。車に壊れていない板を積んで、うちに持って来ておいた方がいいなという程度。15時10分に3メートルの津波が来るってラジオで言って。テレビは映らなくなってたから情報が何もなかったね。うちの地区(薄磯)は狭いところだけど、高台があったからそこに行こうってことになって。周りの年寄りや子供に逃げるベって言って歩いて、最後に高台に上って、15時25分ぐらいに津波が来た。うちの親父の世代は、ここには津波来ないっていう頭があって、親父が下に下りて行ったら津波が来ちゃった。84歳。亡くなっちゃった。

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2日後の13日に見つかった。屋根ぐらいある瓦礫の下にいた。早く見つかって不幸中の幸いだった。薄磯は250軒ぐらい家があったけど残ったのは6軒だけ。120人以上が亡くなった。豊間は550軒ぐらいあるうち300軒ぐらいが壊れたり浸水。90人近く亡くなったね。今だに遺体が上がっていない人もいる。原発の騒ぎで…….

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yoge
サーフィン・プレビュー/吉田憲右著・泉書房、古都鎌倉ミステリー旅/吉田憲右著・コスミック出版など数々の書籍を発行し、2000年にTRANSWORLD SURFの外部スタッフとなったのをきっかけにメディア界に参入。 2001年から2009年10月まで月刊SURFING WORLDの編集部兼カメラマンとして勤務。 その経験と共に、第1回NSA東日本サーフィン選手権大会Jrクラス3位、2年連続THE SURFSKATERS総合チャンプなどテストライダーとして培ってきた経歴を活かし、サーフィンを軸としたスケートボード、スノーボード、ミュージック、アート全般をひとつのコーストカルチャーとしてとらえ、心の赴くままにシャッターを押し、発信し続ける。 >>>出版物 >>>プライベート撮影問い合わせ