Photos by U-ske & colorsmagyoge. Interview by colorsmagyoge.

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【Long Interview】添田博道 †LIVENG LEGEND† 後編

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「いま考えると、

自分のシェイプしたボードがまったく走らなかったことが、

人生の大きなターニング・ポイントだったのかも知れないね」

by 添田博道氏

日本サーフィン界の生きる伝説のサーファー

添田博道氏のロングインタビュー後編では、

添田氏がSoeda Surfboards Japanを立ち上げるまでのバックストーリーと共に、

当時のシーンをさらに深く垣間見てみたいと思う。

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※本ロングインタビューの前編をまだ見ていない人は

>>【Long Interview】添田博道 †LIVENG LEGEND† 前編

をチェック!

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C:その当時は主にどの辺りでサーフィンをしていましたか。

 

H:茅ヶ崎の西浜から大磯くらいまでの間かな。いつもボード片手に自転車で良い波を求めてウロウロしていた。そのなかでも馬入の河口か大磯でサーフィンすることが比較的多かったかな。でも決してそこばっかりってことはなかった。毎日同じような波を滑っても飽きてきちゃうし、あまり練習にならないと思っていたし、今でも思っているから。でも、ほとんどのサーファーは一ヶ所のポイントに執着するからオレみたくあっちこっちでサーフィンするヤツは多少いじわるされることもあったよね。あとは日曜日になると電車に乗って鵠沼の方にサーフィンをしに行ったこともあったな。でも、やっぱり西湘に波がないようなときは鵠沼でもあまり波がないんだよね。昔は今みたいに波情報があるわけじゃ なかったし、とにかく動いてみるしか方法がなかった。はずしちゃうことも多かったけど、やっぱり自分で動かないと始まらなかったんだよ。

 

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C:ハワイへはいつ頃から行きはじめたんですか。

 

H:あれはマーボロイヤルのテストライダーになった頃だったから高校生の頃にはもう行ってたな。でも、ハワイへ行くとなると本当にお金がかかって大変だった。だってチケット代だけでも当時の30万円以上は余裕でかかっちゃう時代だからさ。それで1ドルがだいたい360円代で、現地でのお小遣いも必要だから本当に金がかかって大変なんてもんじゃなかった。でも、それだけ苦労してでもハワイに行って、初めてその地に足を踏みおろしたとき「本当にキレイなところだな」って感動した。聞こえてくる音楽、それに見るものすべてがトロピカルだったし、何よりも買い物好きな自分としてはショッピングへ行くと「あれも欲しい、これも欲しい」っていう感じで、まるで宝の山だと思った。特に洋服に対し てはすごく光るものを感じたね。やっぱり日本はヤンキーものだな、ってつくづく思ったよ(笑)。

 

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C:ハワイの波はどうでしたか?

 

H:最高だよ~、波。やっぱりキレイでしょ。波の形も色もすべてが。とにかくすべてが最高だと思ったよ。パイプラインでもサイズが小さいときにはみんなやっていたよね。でもサンセットなんかは今と変わらない感じでサイズがでかくてもみんな全開で攻めていたな。最初か2回目かはっきり覚えてないけど、青田さんと善家さん(善家誠氏)と一緒にサーフィンをしにいったこともあったな。

 

C:その当時のハワイ用のサーフボードはどんな感じでしたか。

 

H:日本から1本持って行って、だいたいいつもハワイでもう1本サーフボードを買っていた。でも高いからさ。だって、さっきも言った通り1ドル360円の時代だから。しばらくは毎年ボード2本くらいでノースはもちろん、マカハなんかにも足を伸ばしてサーフィンしていたね。

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あの頃はいつもお腹が空いていたな。それでもサーフィンしちゃうから、さらにお腹が空き過ぎて、目の前にいるザリガニ食べちゃおうかな、って本気で思ったこともあった。

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C:RockDance surfboardsを立ち上げたのはいつですか?

 

H:22、23歳くらいのときだったかな、確か。きっかけは最初レッグっていうサーフボード屋さんで働いていたんだけど、ちょっとしたことがきっかけで喧嘩したら首になっちゃってさ。それで仕方ないから自分でやっちゃえっていうことではじめちゃったわけ。だから最初は自分でサーフボードをシェイプしたりもしていた。でも実際は生活するのが大変だったよ。借金はダルマの如くかさんで行くし、そんな状態でも海外のコンテストに出て行くわけだからさ。だから変な話し、海外の試合に出てある程度勝ち抜いて賞金を勝ち獲っても登録費を払っていないものだからランキングがつかないことも多々あった。でもランキングがどうこうってことよりもプロなら賞金稼いでナンボだから、いつも「そんなの関 係ないでしょ」って思ってやっていた。でも賞金を獲っても次のコンテストのために使っちゃったりしてすぐなくなっちゃうから、あの頃はいつもお腹が空いていたな。それでもサーフィンしちゃうから、さらにお腹が空き過ぎて、目の前にいるザリガニ食べちゃおうかな、って本気で思ったこともあった。

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C:自分ではどんなサーフボードをシェイプしていたのですか?

 

H:シングルフィンで、ダブルウイングとかトリプルウイングとか。あとはラウンドなんかもよくシェイプしていた。最初は坂本さん(パイプラインの坂本昇氏)にシェイプを教わって、けっこうたくさん削っていたよ。で、あるときオーストラリアのバーレーヘッズの大会に行った。そのときに自分でシェイプしたボードを嬉しくて持って行ったんだけど、それが異常に調子悪かったわけ(笑)。どんだけ調子悪いかって、もう全然走ってくれないわけよ、あのバーレーヘッズの波なのにさ。で、そのときに思ったのよ。「あ、これは良いシェイパーを集めて、それを売っちゃった方がいいな」って。オレは手はダメだ、と。でも乗って良いか悪いかは判断できる。そのことに気がついて、その次の年にまたバ ーレーヘッズへ行ったとき、エド・アングロ(当時のウインドサーフィンの名シェイパー)のシェイプしたボードで出たらトライアルからメインラウンドまで勝ち抜いてローレックスの敢闘賞を受賞してさ。でも結局残り3分でマイケル・ホーに逆転されちゃったんだけど、結果は17位だった。いま考えると、自分のシェイプしたボードがまったく走らなかったことが、人生の大きなターニング・ポイントだったのかも知れないね。

 

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C:最後にひとこと、お願い致します。

 

H:わかんないよぁ~、そんなのぉ~(笑)。う~ん、でもやっぱり何でも自分が実際にやってみたり、乗ってみたりして感じることが一番大事なんじゃないかな。上手いとか下手とか関係ないから、とにかくたくさんサーフィンをしてほしいし、楽しくやることが一番だと思うよ。ただ、くれぐれも怪我をしないように気をつけて下さいね~。

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>> 【Long Interview】添田博道 -Living Legend- 前編

 

さらに、添田博道氏によるRockDanceも要チェック!!

 

 

 

 

yoge
サーフィン・プレビュー/吉田憲右著・泉書房、古都鎌倉ミステリー旅/吉田憲右著・コスミック出版など数々の書籍を発行し、2000年にTRANSWORLD SURFの外部スタッフとなったのをきっかけにメディア界に参入。 2001年から2009年10月まで月刊SURFING WORLDの編集部兼カメラマンとして勤務。 その経験と共に、第1回NSA東日本サーフィン選手権大会Jrクラス3位、2年連続THE SURFSKATERS総合チャンプなどテストライダーとして培ってきた経歴を活かし、サーフィンを軸としたスケートボード、スノーボード、ミュージック、アート全般をひとつのコーストカルチャーとしてとらえ、心の赴くままにシャッターを押し、発信し続ける。 >>>出版物 >>>プライベート撮影問い合わせ