Photos by U-ske & colorsmagyoge. interview by colorsmagyoge.

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【Long Interview】添田博道 -Living Legend-

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日本プロサーフィン創世記の頃から

最前線で活躍するトッププロサーファーであり、

RockDance surfboardsのSoeda Surfboards Japan頭領として

サーフビジネスにおいても大成功をおさめた

日本サーフィン界の生きる伝説、

添田博道氏。

2014年で58歳(昭和31年生まれ)を迎えるにも関わらず、

いまだ波の良い場所には必ず姿を現し、

世代を超えて心に響く往年の滑りを魅せてくれる。

2014年colorsmag初の特別企画としてお届けする

今回のロングインタビューでは、

様々な時代を乗り越えてきたリビング・レジェンド、

添田博道氏の波瀾万丈な半生に迫ってみた。

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買ったよ。23,000円で。サイケデリック・デザインのアニー・タナカがシェイプしたボードだった。青田くん(青田琢二)に売ってもらってさ。で、デッキはクリアで、レールにはピンラインが入っていて、すげぇカッコ良かったよ。

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colorsmag(以下C):サーフィンを始めたのは何歳のときですか。

 

添田博道(以下H):一番最初に始めたのはねー、たぶん、小学6年生のときだったと思うよ。いま57歳だから、46年くらい前じゃないかな。で、本格的にやりはじめたのは中学1年のとき。中学に入ってすぐだったな。そのときのことは今でもはっきり覚えているよ。3月の春の修時期に、ウエットスーツなしでサッカー部のランパン(ランニングパンツ)一丁で海に入ってさ。すんげぇ寒かったよ(笑)。ランパンって見た目がサーフィンのトランクスに似ているじゃん。当時はサーフィン用のトランクスなんてなかったからさ。サッカー部の奴らを見て、「おっ、あれトランクスに似てるじゃん」って(爆笑)。やばいでしょ~。

 

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C:サーフボードはどうやって手に入れたんですか?

 

H:買ったよ。23,000円で。サイケデリック・デザインのアニー・タナカがシェイプしたボードだった。青田くん(青田琢二)に売ってもらってさ。で、デッキはクリアでレールにピンラインが入っていて、すげぇカッコ良かったよ。ただ、もうすでに水をたくさん吸っていたからボード自体が重かったな。確か、長さは160cmくらいだったかな。当時はまだ周りのサーファーがロングボードばかりだったから、一部の早い人たちだけが、アウトラインはロングボードなんだけど短いボードに乗っている時代だった。でも、当時の23,000円は、しかも中学1年生にとってはかなりの大金だったな。

 

C:それ以来、サーフィンの虜になってしまったわけですね。

 

H:だって、他にやる事なんて何もなかったから。とにかく遊ぶものなんてなかったよ。街中歩いても、ゲームセンター行ったってゲーム機が4、5台くらいしかなかったんだから。
でも、やっぱりサーフィンは面白かったね。他のこともいろいろやってみたんだけど、結局は海に行きたくなっちゃうんだよ(笑)。一応、バレーボール部に入ったりもしたんだけど、全然練習に行かなかったな、中学時代は。ほとんど幽霊部員だったのに「オレも新人戦に出る!」とか言ったら、同級生のエリートっぽいヤツが「なんで練習にも来ないお前が試合に出られるんだ」ってことで取っ組み合いの喧嘩になっちゃってさ。で、結局部活を辞めちゃったわけ(笑)。でも、それからはずっとサーフィンをしていたね。他には何もやらなかったな。とにかくサーフィンに夢中だった。

 

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C:プロサーファーを意識し始めたのはいつ頃でしたか。

 

H:確か、高校2、3年のときだったかな。実家が工務店だったからその仕事を継ごうと思っていたんだけど、やっぱりもっとサーフィンしたくなっちゃって、学校の先生に相談したときに「大学に行きたい」って言ってみたら「全然勉強しないくせにお前にはもったいない」と言われて、だから今度は「専門学校に行きたい」って言ったら次は「行っちゃダメだ」っていうわけ(笑)。で、結局先生に三菱電機に連れて行かれて「ここで働きなさい」なんて言うから、それでこっちも「ふざけんなッ!」ってなっちゃってさ(笑)。結局、当時辻堂にあったサーフショップ“パイプライン”に就職することになった。
そしたらいきなりその年に日本にもプロサーフィンの団体ができてプロサーファーっていう職業が生まれた。確か、当時はコンテストで上位7位だか10位に入ればプロになれた。その第1戦目でプロになったから、時期的には高校を卒業したと同時にプロサーファーになった、という感じだった。だからプロサーファーという職業が正式にできてから、1人目のプロサーファーということになるね。

 

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ある日のこと、薪から釘が飛び出してて思いっきり足にプッ刺さっちゃってさ。それなのに「コロッケ買って来い!」とか、本当に今じゃ想像もつかないくらいめちゃくちゃな時代だったよ。だからよく参ってましたよ(笑)。

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Hiromichi Soeda. Movie by SSJ / TacoFilm.

 

 

C:その当時主流だったボードデザインはどんなでしたか。

 

H:この頃になると確か、160cmから190cmくらいの長さのボードが主流だったな。でも、今と違って幅がかなり広かった。さっき話した中学のときに買ったボードだって長さは160cmくらいだったんだけど幅が広過ぎて自転車で片手で持ち運ぶのに本当に大変だった。腕の長さが足らなくて海の行き帰りに地面によく落っことしちゃったりしてた(笑)。特に冬で寒くて手がかじかんじゃったりすると、ボードを持ってられなくてさ。もうレールがボコボコで大変だったよ。

 

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いま考えるとその頃は本当にサーフボードを大切に使っていたな。何度壊れても自分で直してまた使って乗り潰すまで乗っていた。 ちょっと凹んだり、壊れたりしただけで すぐに新しいものに変えてしまうのが当たり前の今の時代では考えられないよね。

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C:フィンはシングルの時代ですか?

 

H:当たり前だよ。だってオレが中学生の頃はまだ60年代の話しだから。70年代に入った頃はもう高校になった頃で、マーボロイヤルのテストライダーをやっていた。それがちょうど高校1年生になったくらいだったから、もうサーフボードを自分で買わなくて済むようになっていたね。でもそれまでは自分でお金を貯めてボードを買っていたから本当に大変だったよ。だってどんなに安くても1本23,000円から30,000円くらいはしたからさ。しかも毎日欠かさずサーフィンするもんだから、すぐに壊しちゃうし。一度、23,000円でエド小川さん(DROP OUT surfboards社長の故・小川秀之氏)からボードを譲ってもらったことがあったんだけど、運悪くおろしたての初日にボードが真っ二つに折れちゃってさ(爆笑)。さすがにそのときは目ん玉がまん丸になっちゃったよ。で、自分で直してくっつけたらロッカーが「く」の字型というか、おかしくなっちゃってハンパじゃなかったよ(笑)。それでもうそれしかないから仕方なくサーフィンしていたらまたすぐに折れちゃってさ。そういうこともあったよ。それにウエットスーツも買わなくちゃいけなかったし、中学の頃は本当に大変だった。でも、いま考えるとその頃は本当にサーフボードを大切に使っていたな。何度壊れても自分で直してまた使って乗り潰すまで乗っていた。ちょっと凹んだり、壊れたりしただけで すぐに新しいものに変えてしまうのが当たり前の今の時代では考えられないよね。

 

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C:その当時は、今では想像もつかないような環境だったんですね。

 

H:そう。それにサーフィンをしている子供なんて、周りにオレくらいしかいなかったから、大磯とか平塚でやっていると地元の先輩に出くわしたりして、いきなり「おい、お前のウエットちょっと貸せよ」とか言われて仕方なく渡すと全然海から出てこないのよ、これが。で、終いには「薪集めて火を燃やせ」とか言うわけ。そんなこと繰り返していたら、ある日のこと、薪から釘が飛び出してて思いっきり足にプッ刺さっちゃってさ。それなのに「コロッケ買って来い!」とか、本当に今じゃ想像もつかないくらいめちゃくちゃな時代だったよ。だからよく参ってましたよ(笑)。

 

1/9(木)公開予定の添田博道ロングインタビュー後編は、いよいよビジネスにおける裏話へと突入! 乞うご期待ください!!

 

>> 【Long Interview】添田博道 -Living Legend- 後編

 

さらに、添田博道氏によるRockDanceも要チェック!!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

yoge
サーフィン・プレビュー/吉田憲右著・泉書房、古都鎌倉ミステリー旅/吉田憲右著・コスミック出版など数々の書籍を発行し、2000年にTRANSWORLD SURFの外部スタッフとなったのをきっかけにメディア界に参入。 2001年から2009年10月まで月刊SURFING WORLDの編集部兼カメラマンとして勤務。 その経験と共に、第1回NSA東日本サーフィン選手権大会Jrクラス3位、2年連続THE SURFSKATERS総合チャンプなどテストライダーとして培ってきた経歴を活かし、サーフィンを軸としたスケートボード、スノーボード、ミュージック、アート全般をひとつのコーストカルチャーとしてとらえ、心の赴くままにシャッターを押し、発信し続ける。 >>>出版物 >>>プライベート撮影問い合わせ