【BILLABONGCOREスペシャルインタビュー】日本が世界に誇るレジェンド・プロサーファー、添田博道 -70年代半ばから80年代を振り返り、今なお燃え尽きることのないサーフィンに対する熱い情熱に迫る!-
Presented by BILLABONG Japan.
https://www.youtube.com/watch?v=AfIgr6Mq0ms
#BILLABONGCORE Ver.2.0 Vol.1 添田 博道
サーフィンの核(コア)に迫るコンテンツ
「#BILLABONGCORE」が復活!
Vol.1は、添田 博道。
1970年代半ばから’80年代にかけて
プロサーファーとしてシーンを席巻していた
添田はメディアの寵児だった。
当時の資料を見つけたことをきっかけに、
過去を振り返りつつ、
あらためてサーフィンに対する思いを問う。
添田博道(そえだ ひろみち)/1956年、神奈川県平塚市生まれ。1984年JPSAグランドチャンピオン。IPS、ASP時代のトッププロを相手に海外のコンテストで戦い、ノースショアのビッグウェイブにおいても注目を集めた。その実力とサーフィンを愛する心で結びついたコネクションを生かし、ソエダサーフボードジャパンを設立。多くのサーファーたちにハイクオリティなサーフボードを通して楽しみを提供しながら、日本のサーフシーンを45年以上守り立てている。
BILLABONG(以下、B):1981年発売の『サーフィンクラシック』がここにあります。インドネシア特集ですね。
添田 博道(以下、H):このときはね、ニアスに行ったんですよ。ディック・フールさんが撮ってくれてね。石井(秀明)さんが企画したサーフィン映画『アジアン・パラダイス』の撮影に参加したんです。まだこのころは何もなかったですね。パームツリーがきれいでしょ。
B:波もすばらしいです。
H:インジケーターっていうポイントがあるって、そこがすごく掘れてた。でも地震で地形が変わったって聞いたよ。このときのほうがスムーズだったって。
B:初めてのニアスだったんですか?
H:そう。当時は文明が入ってなくて、日本人を見たらみんな隠れちゃう。昔、日本の兵隊さんがいたからでしょうね。ローカルのおじさんで日本語をしゃべる方もいた。道路は日本軍がつくったようなこと言っていました。あと骨董品屋に日本の軍刀もあったね。見ましたよ。
B:サーファーはいましたか?
H:世界中から来てましたね。ヒッピーサーファーが多かったかな。我々はソートン・ファレンダーとジョー・エンゲル、蛸(操)さん、市川(武昌)さん、戸倉(守康)さん、そして石井(秀明)さんというメンバー。まだウォークマンの時代でしたね。日本からニアスに着くまで3~4日かかりました。
H:このときアルゼンチンのヒッピーサーファーにぶつかって、頭をバックリ切ったのを覚えてますよ。着いて数日でサーフィンできなくなったかな。
B:この雑誌が世に出たときの反響はどうでしたか?
H:いやそれは覚えてないけど、見てくださいよ。いい感じでしょ?...